殴られた瞬間、焦げたような匂いが鼻をついた。「これだあ。懐かしい」
2022年9月、井手大喜(だいき)さん(37)は、赤のヘッドギアとグローブ姿で、東京都足立区の「ワールドスポーツボクシングジム」のリングに立っていた。
「ジャブだよ」「中から攻めろ」「ナイス」
自分に飛ぶ声援、パンチが当たった時のぐにゃっとした感覚、一瞬一瞬をかみ締めて、あっという間に試合が終わった。
井手さんがボクシングを始めたのは、大学1年生の時だった。オープンしたてのこのジムに、1期生として通い始めた。
最初は鏡の前でシャドーボクシング、走り込み。10カ月ほど練習して臨んだ初めてのスパーリングでは、後輩に思い切り殴られダウンを奪われた。一緒にプロをめざす仲間となら、何でも楽しかった。
それでも、1年そこそこで、井手さんは「ひざが痛い」とトレーナーに伝え、一度も試合に出ないままボクシングをやめた。
申し訳ない。でも、どう伝えたらいいのかわからない。本当は、高校生の頃から続く、父の介護のためだった。
高校1年生の時、地方公務員の父が脳梗塞(こうそく)で倒れた。当時58歳、仕事に復帰したが、まもなく認知症の症状が始まった。
家に帰ると部屋中に排泄(はいせつ)物がばらまかれていた時には、黙々と掃除をした。「よだれを垂らしながら歩き回るな」と書かれた手紙がポストに入っていたこともある。
父の介護のためにボクシングをあきらめた井手さん。その「忘れもの」を抱えて生きていきます。
父と知的障害のある姉が外に…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル